昭和40年05月01日 朝の御理解



 久留米の初代の石橋先生のことを三代金光様が石橋さんこそ真の人でしょうなと。出すぎもせず、引っ込みすぎもせずと仰っておられます。私達の場合、出すぎもせず引っ込み過ぎもせずというようなおかげを頂きたいと。こういうふうにただ、出過ぎてはならん引っ込み過ぎてはならんということに心がけておくというだけではないと思うですね。自ずと言わねばならん時には言う、出らなければならん時には出、出らんでよいところに、自ずと出らんですむという、結局、その内容の問題だと思うですね。
 そこに、努めるという、努めて、言うちゃならん言うちゃならんと、出ちゃならん出過ぎちゃならんというのではない。ね。この辺が私はやはり、信心が本当にできていかなければできんと、いわゆる実意丁寧神信心ができなきゃでけんと。実意丁寧神信心ができてくる時に、いー、誰の前であろうが、卑屈にならんですむ、堂々と言わねばならん時には言い、出らねばならん時には出る。
 その人の信心が出らんでよい時には出らんでよい、そこの、まあ信心というか、その心の中にある有難いという心。そういう有り難いという心が元気な心が出せる場合もありゃあ、有り難いという心が、言うなら調和を保っていくというか、調子を保っていくというものでなからなければならないと思うですね。昨日、午前中の奉仕さして頂いて、皆さんお参りをして来る人がほとんど、それを言われたんですけども。
 先生、昨日、その昨日の言葉の昨日ですから、一昨日ですね。あのう、総合委員会の、あのう、雰囲気で非常に皆が元気が出たと、おかげを頂いたと、ということと同時に伊万里の竹内先生のお話を頂いて、まあ大変おかげを頂いたという方が多かったです、皆なもそうだったんですね。本当にそのう、私共の共感をよんだわけなんです。竹内先生のお話を頂いておりますと、ここでもああいうふうに言われたんですけれども、いつでしたか、もう半年もなりますかね。
 あの小倉の教務省に参りました。いわゆる教務所長善導寺の親先生、今を前にして仰ったこともやっぱあのことだったんですよ。うん。ね。私はあれを聞かせて頂きながら、あのうただ椛目に対する尊える言葉だけではなくてです、真実ああいうふうに思うておられると。だから、堂々としてあれが言える。誰の前でもああいうことが言えるのであり、椛目の信者の前にだけあれを言うのではなくてです、
 ああ言う様なのが私は出過ぎもせなければ、引っ込み過ぎもせんという信心じゃなかろうかというふうに感じたんです。ね。お互いの信心が頭が出来過ぎますと、言わば何て言うんですか、福助さんのあれは見ますと頭が大きいです。頭が重いもんじゃから頭が重いから(地に?)頭が下っておるという頭じゃいかんということ。自分の都合が悪いから頭を下げておるというのでも自を低うしておるのでもいかんということ。
 そういう人は頭が軽うなったら、もう頭を持ち上げるのである。ね。自分の都合ではもういつも頭を上に、上げておる人であるということ。結局、有り難いという心がいつも実意丁寧、有り難いという心がいつも、自を低うしておられなければおられないと。「実れば実るほど、頭が、頭のかがむ稲穂かな」という。私共が実れば実るほど、頭が低うなっていくという、いわゆる信心が分かれば分かるほど、有り難うなっていく信心を頂かにゃいけんということ。
 いかにも、出過ぎちゃあならん、引っ込み過ぎちゃあならん。そこに心がけて言うておる間は、まだ本なもんじゃあないと思う。自分の有り難いという心がです、言わねばならん時には誰の前でも堂々としたことが言えれるということ。ね。例えば人を軽う見な、軽う見たらおかげはなしとこう仰るが、ね、自分の方が偉いと思うたら、人を見る。自分の方が軽いと思うたらその人の前に平身低頭する。ね。
 こう言う様な事であってもならない。自分の心の中に有難いというものがです、いつも私は自を低うしておれれる信心、自分の信心は頭でっかちになって頭が重いから、自分がだからある場合には卑屈になって、なあにも出来んから卑屈になってから頭を低うしておる。自分は何も出来んから頭を低うしておる。こんなのは私は自を低うしておるのでもなからなければ、あぁ実っておるから頭を低うしておるのでもないという事ね。
 自分が確信を持って言うことなら進むことならです、誰が何と言うてもそこをやり抜いていくという精神。それはどこまでも信心が元であり、有り難いという心がそうさせておるというもの。ね。自分は何も出来んから引っ込んどこうと。もうこういう私はものが、あぁ引っ込んでおるというのではない。それは引っ込み過ぎよるのである。ね。出過ぎもしなければ引っ込み過ぎもせんというのは、そら引っ込み過ぎるとか出過ぎるとかそういうことだけに、このう心掛けでおるのでなくてです。
 いつも有り難いという心が、いつの場合でも、どんな場合でも、調和を保っていくという、そういうものでなからなければいけない。自分の心の中にある、有り難いというものがです、ある場合は言わんですむ、ある場合は、誰の場合でも、はばかることなく言えれる心。有り難いという心が、それである時、私はいわゆる、出過ぎもしなければ、引っ込み過ぎもせん。
 久留米の初代の石橋先生なんかは、そう言う様なお方ではなかったかと、私は思うのです。改めて出過ぎもせん引っ込み過ぎもせんという、それを検討して自分の信心が果たしてそれであろうかと、そういうふうに、それに焦点を置いておることであろうかと。いかにも、自分はこう引っ込んでおるようにあるけれども、ね、それは自分が何も出来んから卑屈になって引っ込んでおるのじゃなかろうかと。
 自分が積極的に、言うならばまあ出ておると、それは場合によっては、人を軽う見たり、ね、そう言う様なその心がです、積極的である様な事ではなかろうかと。ね。問題は有り難いという心がです、出過ぎもしなければ引っ込み過ぎもせんという、調和を保っていくもの、その元は有り難いであり勿体無いであると、ね。そういう人を私は実意丁寧神信心が出来ておる人だと。
 そんなことを昨日午前中竹内先生の話に頭が下がったと感激したとね、と言うて皆さんが言うておられたが、確かに竹内先生なんかは、ある意味でですね。ああいうのをまあ言うなら出過ぎもしなければ引っ込み過ぎもせんというのじゃなかろうかと。というなふうに感じた。そして先生の信心を思うてみる時にです、もういつも心の中にです、いわゆる有り難いというものを持っておられる。それがああいう姿勢というか、ああいう態度というか、ああいうお話がおできになるんじゃなかろうかと、まあいうふうに感じたんです。   おかげ頂かなきゃなりません。